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小論・「感応」「解釈」「発露」という私案 ――文芸雑誌『ネヲ』掲載文に対する拡大解釈と私的補遺、そしてつぶやき――

 今回、文学フリマin東京において文学誌『ネヲ』を入手した。
 その中で今回は巻頭にあった三上春海氏の論について大きく惹かれるところがあったのでそれについてちょっとした思考をした。それを記す。
 三上氏が――ここでは失礼ながら、小話のように論をやり取りするフランクな雰囲気で語っていきたいので、以下「三上君」と君付けで呼ばさせてさせていただくことにする――誌上で検討したことは、「なぜわたしはものを書くのだろうか」という物書きの根本的な命題だった。
 読んだには、志村貴子氏の漫画作品『放浪息子』を手掛かりとして、作者の志村氏、作品の登場人物達の行動・ありように介在する「見る」「見られる」というスタンス、及び「書く」というスタンスを解釈・解説し、「書く」という行為のメカニズムについて解き明かそうとしたものである。三つのスタンスに複数の視点から様々な関係性を見出しており、非常に興味深い。詳細な内容については、ここで紙幅を増してしまってはこの拙論をご覧いただいている数少ない読者の方々にとって目と脳を疲弊させることになってしまいかねないので(実際当該小論を読んで自分はその分の長さゆえどっぷりと疲労感に浸り、そして大いなる思考欲求を駆り立てられた)、失礼を承知ながら割愛する。そちらの方をこそ読んでみたい、という方は『ネヲ』本誌を入手するに越したことはない。
 さて、そこに述べられていた三上君の主張を読み下し咀嚼し、その論はもっともであると思い至った。「見る」「見られる」という悦楽の大元(ないしはそれを得る手段)がまずあり、それとは別の次元から重なる形で「書く」という欲望の達成手段がある。一構図としてはそのようになる。スタンスが一対一でどこまでも絡まる構図だ。
 しかしこれで事は足りうるのだろうか。本論著者の私も、今回論を取り上げさせていただく三上君も短歌の世界に手を染めた人間であるゆえ、言ってしまうが、我々が短歌を創り出し、文字にし、発語する――ひっくるめて「詠む」という行為をする時に、事は一構図で足りるほどの単純明快たりうるか(無論三上君の論はそこで終始していない)。畏れながらこれでは喧嘩を売る形になってしまうが、でも、折角今回思考したので書き著してみたい。
 そもそもこの欲求が論の主題に深くかかわるのではなかったか。
 まず、取り上げた論では演劇を引き合いに出して、「見る」「見られる」のそれぞれの主体がその場において感じる悦楽の「スパーク」について論じている。一方的に「見て」事物の内容を手中におさめたい、一方的に「見られて」全視線を一身に集めたい――全動作を我が下へ。この原因は、確かに、最終的に主体それぞれの自己愛に帰着するだろう。要は、乱暴な言い方をすると「これだけのものを持っている」「これだけの(ものを引き付けられる)力を持っている」『自分カッコいい』と思う心理であろう。
 話はいきなりそれるが、これはある視点で「書きたい」と思う心理に直結するのではあるまいか。有史以来、文人論客が活躍する・したその時々の「カッコよさ」――平民の生き様から遥かに超えた専門的な道に邁進する、その様式美を知る者なれば、それを真似して体得し、自分も称賛を浴びたい――という欲求がありはしないだろうか。恥ずかしながら自分はそれを否定できない。これを「書く」ということの理由として「第一の因子」と呼称することにする。
 しかしこれは、三上君が「『書くこと』のすべてをここに帰することは確認したようにできない」とする通りである。他にももっと理由があって、「第一の因子」もまた、その中で一因子として作用するのだろう。しかしその存在に意義はあるだろう(後述)。
 次に、三上君が稿中で取り上げるのを打ち切った「天秤の構図」について目を向けたい。
 その構図については、「天秤の片側に『見ること』を、もう片側に『見られること』を載せるならば、『書くこと』はそれらを支える支点としての天秤そのもののことである」と述べられている。(創作物を)見る/見られるという欲望。創作物の外の次元においては、作者の性質・性格に分かちがたく結びつく。志村氏は書籍やDVDの山に囲まれて暮らすタイプであるという。ゆえに氏は自己の中にはない「見られる」という欲求について取り上げたかったのではないか。それは作品中に深く浸透するバックグラウンドとなる。また、商業誌に掲載される作品であるがゆえに、作品を「見られる」という意識は少なからずあるはずだ。作品として「こう見られたい」という思考は(氏の場合はどうであるかは判断しかねるが)「書く」という表現行為に還元されうる。そこには、今現在創作中の作品を「自分はこう見る」という、決まったストーリーを固持する意思もある。憚らずに言えば、読者からどういう反応が来たとしても、自分の持つストーリーを一旦外から自己の主観を持って見た時に「こういう場面や展開がふさわしい」という固定欲望がある。それらを統御しつつ「書く」という作業は進行する。この場合「見る」「見られる」の二つの行為は表裏一体であり、真に自己中心的である。そして、二行為と相互作用するところの「書く」という行為がある。悦楽を得たいがために書く、という一元的な取引の下で「書く」という事を考えてみると、作品を「こう見られたい」と望んで「書く」、創作者として「こう見ていたい」と渇望するから「書く」。ここには、一定の作用を表わす化学式が成り立ちうるかもしれない。
 しかし、「こう見られたい」という願望に限っては、解するに若干の不安要素が残る。それは三上君が既に述べている。「作者であるわたしたちにとって『書くこと』は『読まれること』であり『見られること』であるのだろうか」。もし、今これをご覧いただいている読者諸兄の皆さんが何かしらの書き手であられるならば、御一考願いたい。「『書くこと』と『見られること』は同時に発生しない」。至極当然、論理的なことだ。その時点で描いている作品世界をリアルタイムで脇から覗かれているわけではあるまいし、作品が完成してから読まれるまでにはいくらかのタイムラグが発生している。
ここで三上君は、作品中の「言葉」というものが媒介になっている、と言う。我々は、文章に限らず作品を織り上げるときに何から悦楽を引き出そうとしているのか。「言葉」であるという。
 作者も読者も、一定の思考・性格・状態等で固定さしめえず、変化するものである。ゆえに、読者は作品(の言葉)を通じて、生の(変化する)創作者ではなく「創作物の固有なる魂」を感じ取る他なく、作者とて、作品を巷間に示すことにより一定の中身を認知し咀嚼してもらえる「理想の読者」を求める他ない。「創作者の固有なる魂」「理想の読者」のような存在は、三上君の稿中では「一なるもの」「間主観性」という風に表現している。 ……と自分は解釈する。
 とすれば、作品を通じて得られる「悦び」は、常に文字越しの仮定時空、仮定主体から引き出されることになる。
 この「悦び」は「『書くこと』が有している新たなる主体を生み出すことの悦楽」「過去と未来へ伸展していく非時間的主体を生み出すこと」であり、もっと言えばそれを経過して「出産の悦び」を得るに近い、と例えられている。「書くこと」によって、「わたし」という一個性を光あふれる永遠の世界に置くことのできる「悦び」。分かりやすい例を以て言うならば、これは「自分史」の創作動機に当たらずとも遠からず、だろう。自分という存在が、これこれこういう存在であり、これこれこうして、産まれ、育ち、人生を築くに至った、と。その過程全てを永続性のある「著作(物)」という形に留め、後世に永く遺しておきたい、と。これは、古来からある「不死欲求」に非なれどもある意味似ているものと思う。それが、「自分自身の存在」から「作者本人の創り出したい世界」「創作者の固有なる魂」へ遺したいものを置き換えられた、ということである。これを「第二の因子」と呼称することにする。
 ただしかし、これについて自分はまだ一因子でしかないと思う。
 なぜならば、「書く」という動作が目的化した結果の欲求だからである。ここでまた御一考願いたい。自分史ならばともかく、自分の思い描く「作者本人の創り出したい世界」「創作者の固有なる魂」を後世へ残したいがためだけで我々は筆を執るのか。それらがイコール作者の創作目的・創作テーマ、ということであれば話は別だが。「そう、『書くこと』とは主体を産出した結果として永遠に生き延びることを目指すものではまったくない」。「『書くこと』にそのような打算は必要ない」。我々が短歌を一首ひねり出すたびにそういうことを考えてしたためているかと言うと、そうではないと思う。
 論点を一旦「『書く悦び』は常に文字越しの仮定時空、仮定主体から引き出される」ということに引き戻すと、単純に考えて、仮定、つまり「悦び」の出元を作者側が仮に設定しているのではないか、ということも補論として付け加えておく。作者が作品を出した結果として望む大きいものとして(反論やお怒りを受けることになろうとは思うが)「理想の読者」を自分は一つ、思い付く。誰しも、自分の作品を誉めてもらえる、好きだと言ってもらえるのは、色々な受け取り方があるにせよ嫌なものではないだろう。逆に、そうしてもらいたい欲求も、あるのではないだろうか。これも、「書く」ことによって得られるプラスの(あるいは場合によってはマイナスの)成果を期待する、という結果を先取りした理由付けに帰着すると考える。これをここでは「第三の因子」と呼称することにする。
 ここで、第二、第三の因子は結果論的な性格が強い、と言わざるを得ない。
 第二の因子において取りざたされる感情は、一首をしたためて、連作をそろえて、その後の感慨として起こるものと言えば最も自然ではないだろうか。「遺ってほしいから書く」のではなく、「書くものがこの先も遺っていてほしい」ではないだろうか。
 また、第三の因子についても、それが何故ありうるかということに思考の矛先を向けてみると、「一度過去に作者が作品を出したことがあり、そこで自分にとって嬉しい評価を受けたことがあるから」「他の書き手が称賛されていたのを見て、自分もああいう賛辞を受けたいと思ったから」等々、例が思い浮かぶ。先例なくしては、正負どう評価されるかも分からない。そんな風にして作品を書く道理はなく、平たく言えば、やる気も湧きはしない。
 一方で、「他の書き手が称賛されていたのを見て~」というくだりは第一の因子に似ている気がしなくもない。物を書く側が雲の上の人として憧れるのは、その人生スタイル、執筆スタイル、独特で非凡な世界観、そして何より名だたる文人、小説家、詩人、歌人、俳人、柳人……等々、物を書く側の我々よりもはるかに上の位置にいる、その事実である。そこに憧憬を抱き、願わくば同じようになりたい、とひそかに燻っている。その「願わくばもっと上の位置に」、という点においては先に挙げた両者は共通している。差異といえば、前者は「同化するという能動」、後者は「称賛されるという受動」であるということだろうか。
 ……かなり脱線してしまったのでこれ以上は止す。
 しかしどこまで行っても、「書くこと」を前提に置いた結果として得られる「悦び」に変わりはない。第一の因子も、ここまでの論展開を通して考えるならば同じことだろう。
 ここまで長くなった。しかも乱暴な展開だった。お詫びする。
 しかし先にも言った通り、第二、第三の因子が全く「書く」理由ではない、とは言い切れないし、自分はそう言うつもりもない。以上に述べてきたのは結果論的な「悦び」であって、それは真には「悦び」には該当しないということは全くもってありえない。ただ、もっと根源的な欲求、精神状態の内奥から発生する因子――それが我々の創作心のどこかに隠れていはしいないか、そう考えるのである。
 ここで志村氏の「放浪息子」に話を戻すことにする。
 創作物の中の次元において、の話がまだだった。「『書くこと』が物語内の主体へと浸潤してゆくことはあるだろうか」。現実世界に「書き手」である志村氏の(『見る』『見られる』ことに対する)態度が作中人物たちに影響し、果ては乗り移ることはあるか。または、「見る」「見られる」という二種類の状態を、志村氏はどう解釈してどう作品「放浪息子」等の内に展開したのか。
 これは本当に申し訳ないが、最終的には志村氏ご本人にお聞きしてみなければ分からない。そもそも、爆弾発言であるがこの分の執筆者である自分は志村氏の作品を一つも読んだことがない。なので、可能性、否、想像の世界内でしか物を語られない。小「論」と銘打っているのに論理的実証的ではない、とアカデミズムな手法の欠片もなく正統に反したまさにあり得ないことだが、著者本人、それぐらいの文章のつもりであるので笑ってお許しいただきたく、あるいは読み捨てていただきたく、改めて申し上げる。
 閑話休題。証左がないので何とも言えないが、自分は、志村氏が「書くこと」をモチーフとして作品中に取り上げた動機を考えるのに、三上君の次の文章をひとつパズルのピースとして挙げる。
 「…『書くこと』はそのような利益を求める能動性によって駆動するものではない。……世界という雷光に撃たれた結果としての受動性の発露が『書くこと』なのではないか」
 つまり、どれだけどんな見返りを受けられるという打算の下に、それを受けたいから書く、というのではない。そんな計画性は「書くこと」には内在せず、五感をそろえた生き物として我々が世界からものごとを感じ取った、そのショックの反動、とでも言うべきだろうか。それが「受動性の発露」である。この一言が、自分にはひどく重要に感ぜられる。
 これを全ての大元にして考えると、「書くこと」は「見る」「見られる」という事柄の次元からは完全に乖離してしまっているのではないだろうか。「受動性の発露(以下、『発露』)」という現象は、曰く、「感得者本人」と「その感じ取る周辺世界・環境の全て」の抜き差しならない一対一の構図の上に成り立っている。マンツーマンの感応である。感得者の五感というフィルタを通して世界は投影されるのであるから、無論他者が差し挟む余地もない。脳感覚を共有する遠い未来じゃあるまいし、それは揺るぎない。「見る」「見られる」という(時間を置いた)相互作用も蚊帳の外である。
 ここで肝になるのは、「書くこと」の前段階としての、“何者も干渉することのない”感応と発露である。
 「何物も干渉することのない」ということはそこに起こる事象は全て当事者のもの、実質「書く」動作を起こす本人のものである。そこで起こる感応、あたかも雷光に撃たれるような感応はあくまで極々個人的なものであり、五感・思考のフィルタを透過しているからに結果としての発露も世界に二つとない感得者独自のものとなる。言い換えれば、純粋な自分自身の思考・感受の発露となる。もっと分かりやすく言えば、自分が感じたことを感じたまま、自分だけの表現でアウトプットする、という流れになる。
 志村氏が表現したかったのは、もしかしたらこの「純粋な(自己の)感応・発露」だったのではないか。
 氏がモチーフ二本柱の片方にしているという「見ること」「見られること」はどうしても他者との関係性の下に実行される動作である。他者への意識の下、とも言える。「見られること」においてはなおさらで、現代社会ではまだ「ぼくは、おんなのこ」と主張することも表現することも一般には奇異の目にさらされる。性意識に周囲とのズレがなくとも、別の原因があって、結局他人の目は気になるだろう。他者から意識される(されているかもしれない)。そんな他者を意識する。
 それが、純粋無垢な自分だけの世界を広げられると言えば、刺々しい周囲の空気が入り込まない無意識状態下で、自分自身の感性を出し切れる「書くこと」によるしかあるまい――そう思うのである。自分の性意識の差をダイレクトに表現することは、修一やよしのにとっては代償が重すぎる。しかし、代償云々リスク云々を思い浮かべない次元に存在する「感性」というものは(知らず知らずの内にだが)表現できる。個人的には、それは自分自身にしかないほとんど唯一の持ち物であるから、「自己同一性」と等価であるとしたい。
 つまり、志村氏は「放浪息子」内で「見ること」「見られること」と「書くこと」をそれぞれ別次元に、言ってしまえば対立項としておき、「見る」「見られる」に振り回される登場人物たちが、一方でいかに自己を保ち発露していくか、「書くこと」をするか、というその有様を描きたかったのではあるまいか。
 ……ここまで書き連ねてしまっては三上君どころか原作者の志村氏にとってもとんでもないご迷惑になるかもしれない。しかし、以上のように仮定すれば、修一が「書くこと」で「注目を得たい」「自分自身を深く見つめなおしたい」と等は考えずに「書く」、その動機がぼんやりとながら輪郭を得るような気がしているのである。
 何も目的意識がないのは、考えずに感じたままを紙へ書きつけているから。
 その意義は、男性でありながら女性だと自分を認識している、「二鳥修一」という存在をありのままに表現するということにある。
 書きたいから書く。
 ……と結論付けてしまったが。これではあまりに元も子もなさすぎるきらいがある。
 だが、この結論をより深く掘り下げ、具体的に原因と帰結が結ばれるプロセスを明示するのに役立つだろう、以下のような興味深い話を自分は別分野において聞きかじっている。
 自分の趣味から引っ張り出してくるので恐縮なのだが、著名な怪談作家に平山夢明という方がいらっしゃる。とみに、実話怪談――実際に起こった怪奇現象・恐怖体験を取材し、それを元に忠実に構成したノンフィクション怪談――の書き手として知られており、「『超』怖い話」シリーズ等の著作がある。ちなみに自分はこの「『超』怖い話」シリーズで本棚の一段を埋めに埋めている。
 そのシリーズの、ある巻のあとがきでの一節なのだが、平山氏自身、実話怪談を取材していると、話し手はある意味「カタルシス」、「浄化作用」として体験を語るのではないか、と推測されていらっしゃった。つまり、「ほん怖」ばりの恐怖体験をした体験者=話し手にとっては、自分でも説明ができない、不可解な現象をいつまでもいつまでも内に抱えているのだという。科学文明の発達した現代、そうした幽霊お化け魑魅魍魎の類は、おとぎ話かひと夏の納涼番組のネタになるぐらい、誰も信じてくれないのではあるまいか……そういう想像が作用して、自分でも「あれは夢か勘違いだったんだ」と思い直して鎮めようとするけれども、それでも過去の体験の底から恐怖心は湧いて止まず。悶々としているところに、体験を馬鹿にもせず笑もせず真面目に受け取ってくれる聞き手が来たとしたならば、それはもう喜んで胸の内の蟠りを暴露して痞えをなくし忘れようとする……そういう寸法である。もしくは、怪奇現象、心霊現象といえば祟り・呪いがつきもの。ゆえに自分にだけそれ関係の災厄が降りかからないように聞き手も道連れにしたくて……云々。
 ……かなり雰囲気が凍り付いてしまったが。
 ここで言いたいことは、「体験者(本論内ではイコール感得者)」は、自分の体験を発話・筆記、その他さまざまな手段により外界へ披露することで、自分の内にある体験由来の感情の蟠りを「発露」したいのではないか、ということ。その点においては上記の実話怪談の例と今まで述べて来た論は重なりうるということ、である。「発露」に「カタルシス」とルビを振ればこの場合丁度よくなるのだろうか。
 ここまでの話をまとめてみる。
 「書くこと」の理由は様々にある。しかしながら、それは「書くこと」で得られる外部からの反応、自ずからなる成果を求めての、いわばゴール地点ありきで設定されるものが多くなきにしもあらずである。しかしながら、そこのなかに一つ、純粋な欲求として外界から五感に様々な刺激を受け取った、そのショックリバースとして蟠った感情の類を書き走りたくなる。それを書いた本人は「書きたくなったから書いた」と説明するだろうが、そんな単純なものではなく、「放浪息子」の話の中からも想像できるように、世界にただ一つしかない自分の感性を何のじゃまもなく表現できているという素晴らしい直接性を秘めている。ここに言う「ショックリバース」的な理由を、第四の因子、と呼称することにする。
 この第四の因子について、自分は更に「書くこと」を我々物書きの視点から段階分けできるのではないかと思う。といっても、それはかなり普遍的な話になるだろうと思う。それは、上で「感応」「発露」という二段階があることを説明したが、それに対して間に挟めうる「解釈」というステップがあるということである。
 例え話をしよう。
 青天、しかも雲もなく晴れ上がった青い空。
 これを「青い空」と表現することには何ら差支えないし、当然のことである。しかして、それは空を見上げた主体が「青い」と感じ得たからである。それは誰かが「あの色は青って言うんだよ」と教えようとも、それは色を形容する名称・記号にしかすぎず、主体、感得者にとっては厳然と「今見ているこの状態の空の色」として「アオ」が生々しく体感・記憶される。
しかし。それを主体が自分なりに上手く言い表そうとして、「どこまでも突き抜けるような」「地の涯まで広がっているような」「曇りのない透明な色ガラスのような」青い空、等と表現しようものなら、それは「青い空」という認識した原形を、その特徴を捉えるべく思考・解釈した証なのではいか。
 そういう表現の工夫、事物の多角的な捉え方は短歌をやる方々ならいざ知らず、日ごろのSNSでも多く散見される。時折朝のニュースで笑顔をもたらしてくれる、「空の雲がハートの形でした」「この大根の形が、足をくねらせたヒトの下半身みたいじゃないですか」という読者からの写真投稿。普段なら見過ごすだろうものを、自分なりの形で認識してそれを投稿という形で発露する。ツイッターやフェイスブックでも、そういう記事は一年三百六十五日いつでも大量に目にすることが出来る。裏返せば、そういう自分独自の白鍵をしたことを知らせたい、という衝動がそこにあるのではないか。
勿論、「解釈」の段階がない「発露」だって逆に十分考えうる。しかしながら、最も「私性」が強い部類に位置し、しかも大和の国のその昔、ヤマトタケルノミコトが八雲立つ、と詠い始めてから延々続く和歌・短歌の裾野ッ原。長い時代を経たことで、マンネリ、表現が他の作と重なることを極端に避ける傾向も強まった詩形。自分なりに「詠みたい」と「雷光に撃たれた」対象事物をあらゆる方法・角度で観察し、考察し尽くし、唯一無二の表現を獲得せんとする志向はもはや創作物の世界では一つの常識に数えてよいかもしれない。し、こういうことをおっしゃられている先行者の方々はごまんといるはずである。
 「感応」-「解釈」-「発露」。この三段階が「書きたい」ということの具体的な過程なのではないか。これを自然なこととして行っているのが我々なのである。まさしく三上君の書いたその通りであった。「息をするようにものを書くひとは、ものを書かなければ苦しいのだ。そのように自然な行為としてひとはものをかくことができるのだ」。まさにカタルシス、なのだろう。
以上のように勝手に勝手な私案を打ち出したところで、もう一考してみる。もはやどうでもいいかもしれないが、まだここまで読み切っても疲れていない、という素晴らしい方は、手前文を弄してお目汚しすることしかできないが、笑い種にするもよし、ヤジを飛ばすもよし、真剣に反論を突き出して自分をこてんぱんにしてくださるでもよし、とりあえずもう少し続けることにする。
 上で長く論じて来た「書くこと」の動機・欲求は、私事ながら短歌に絡めると複数の要因が作用しあい、がんじがらめに絡まり、一層複雑さを増す。そう強く感じている。一本の若木が生長過程で風にふかれ嵐にもまれ、結果花も果実もその影響の下、様々な完成を見せるように。
 ここまでで「書くこと」の原因について、そのほんの一部を四種類挙げてきた。

第一の因子:文筆の偉大な先駆者と同様の地位・評価に憧れ、そのような扱いを願わくば自分も受けてみたい
第二の因子:創作物を通じて想起される「一つの独立した個」としての自己イメージを、現実の自分が存在し続けるより長く
        保存させ、一回限りの生から解放された世界に放って置いておきたい
第三の因子:純粋に、「書くこと」により作品の受け手からのプラスの評価・印象を得たい、誉めてもらいたい
第四の因子:自分が周囲の世界から感じ得た(感応)ことを(自分なりに咀嚼し、表現として昇華させ(解釈)、そうした後に)
        自分のなかに留めておかずに発表してみたい(発露)、という衝動

 短歌の原動力が第四の因子であることは、上述の通り言及の先例がある。俵万智氏も著作で同じようなことを既におっしゃっていた記憶がある。
 しかしどうして、この業界においてはその気一本だけではまかり通れない現状である。憚らずに言えば、感じ得た事物を歪めてでも、工夫の新奇性・斬新性が求められるのではないかと思うゆえである。
 一例をあげる。
 短歌界では往々にして、論壇に掲げられる「実の作者=作中主体である」という問題がある。これは第二の因子にあるいは関係しているのかもしれない。短歌は大雑把に言えば、長い歴史の中で「私性の文学」と呼ばれて来た通り、私事、私的世界を表現することに長けて生きながらえて来た文学形式である。「私」を表現することを旨にして作歌するならば、一定の中身を認知し咀嚼し、作品内に想定した通りの「私」を認識してもらえなくては、作品を味わってもらうどころの話ではない。つまり詠者は「作者本人の創り出したい世界」「創作者の固有なる魂」を想った通りに飲みこんでもらいたいがため「理想の読者」を仮想し、読者は逆に「作者本人の創り出したい世界」「創作者の固有なる魂」を仮想する。「理想の読者」たらんため……かどうかが正当かはまだ検討していないが、「読み」は「詠み」に通ず、自己(作品における)表現のよりよい方法を実現するために、どうすれば一番読者に心の内が通じるか、この作品においてはその問題がどう消化されているかを考えながら読むこと――があたかも日常的な修練のようになっている。かもしれない。いずれにしてもそのような可能性がないとは言えないわけである。
 ここに詠者―読者をもろとも縛る大きな絡繰がある。
 だがそれが、近代になって(か真にはどうなのかは論からは逸れるのでさておき)作中主体が実の作者と等号では結ばれない場合も出て来た。実在の、生の世界ではない空中楼閣の内実を、その中に生きる(ある時は『作者』と思しき)作中主体について読み取らねばならない。現実の詠者、作者たる一個人を乖離したイメージ像が結ばれる。短歌のオフ会などでは、普段作品を読んでいて「こういう性格の方なのかなぁ」「こんな風貌の人なのかなぁ」と夢想している人に限って、いざ会ってみるとそれを大いに覆されてしまう、という話をよく聞く。かく言う自分も、実年齢より相当年を食っているように思われていたという経験がある。
 これは詠みぶり、文体等も影響するのだろうが、強烈な例を挙げるとかの寺山修司、中城ふみ子……等々、短歌界を彩った往時のスターが目白押しなのではないだろうか。もし、つぶさに一首一首を知られることはなくとも、その創作者としての生を縁取るキーワードは一種の独特な色彩を以て並べられるだろう。
 それは一つは、三上君の言う所の「間主観性」のなせる業、とは言えないだろうか。
 またやや話をずらせば、「書きたい」という欲求も変質しうると思う。
 本当は第四の因子に従って思いのたけを書き綴るのが健康的なのだろうが、(これは短歌のみならず)文壇に足を掛けんとすればそうはいかない。かの北原白秋が、詩歌はその作品にを通して名を広く知られなければ、やる意味がないという言を残したことがある……というのはいささか自分の記憶違い・脚色のし過ぎかもしれないが。実際その通りかもしれず、歌の筆一本、世界に打ち立てるために脳と魂を削って賞応募へ取り組む人口は計り知れない。それが悪いこととは言わない。自分もその内の一人である。しかし中には、アマチュアとして人生を彩り謳歌する一つの手段として短歌に勤しんでいる、むしろ楽しんでいる、という向きもある。その人口も多い。勿論研鑽はたゆまず積んでいられることだろう。
何を主張したいかというと、自発的に思うままを、の作歌ではなく賞のために、または文芸誌投稿のために、という「出すために書く」という傾向が少なからず見られることである。筆者はそのために、投稿を控える度過去作メモを流し読むのがもはや習慣になっていることを付け加えておく。
 ここには、受賞して正当な評価を受けたい、ないしは応募してその後の反応により自分の力量がどれくらいのものであるかの試金石にしたい……等々の思惑があるだろう。これはよくよく考えてみると、第三の因子にが働いている場合に該当するのではないか。過剰な物言いをゆるしていただければ、ある場合はそれを通り越して、真に「出すために書く」という究極的な事態になることもありうるかも、分からない。
 だが筆者自身、それを否定する気はないことを、再三失礼ではあるが書き記しておく。どんな因子も考えうるし、働きうる。その全てを否定して、「健康的に詠みましょう」と第四の因子の下に全人口が集まることの方が、ある意味全き不健全である。
 この拙論でさえ、実を言えば――ネヲを一読してインスパイアされたのと、それからここまで、一つのことに熱を入れて言葉を積み重ねられる書き手に、密かな対抗心を燃やしていた、それからその他もろもろ、配合成分定かでなく混在している。そんな体で書いているのである。ともかく、筆者の自分はそのよく分からない欲求に突き動かされ、大学で稿を起こし、深夜の喫茶店を二軒梯子し、帰宅してパソコンに向かうこと数時間、外が白んで来てまで延々キーボードを叩き続けている。いろいろな欲望が執る筆の先に、キーを打つ指先に渦巻いているのではないか。
 第一の因子を定義したとき、その存在にも意義があると述べたのはこのためである。作家の、ある時はスタイリッシュ、ある時は情熱に燃え、あるときは波乱万丈、優美、ハードボイルド・・・・・・そんな様式美たる生に憧れる心は、純粋であり、強い。主体的・主観的な、いわゆる「好み」「嗜好」の下に定まるゆえに、他者の介入するところがないためである。憧れる先人との一対一。ことに短歌をこれから始める初心者にとっても、目標・指針となる先人がいるといい、というのは他分野の例を見るまでもなく好ましい。無垢な昇華欲求が、そのまま活動のベクトル、ヴォルテージにつながるからである。ゆえに、それを否定できはしない。便利な言葉だが、「書くこと」への理由付け、欲求はその時々によって山の天気のごとく変わりやすく、しかもどれも押しなべて、執筆、アウトプットの意欲をもたらしうるだろう。全ては場合によるのだ。
 しかし、それでも本当のところを言うと、自分の表現、感情、感性……その出所は自分自身に他ならない。理論的に突き詰めると、本質的にはそれが「書くこと」の原動力ではないだろうか。このことを記憶の底に留めておくべきであると思う。創作の基本的な作業は、感じて思った通りのことを、そのままに記して吐き出してみる。それに尽きると、今強く思う。でなければ「放浪息子」の作中で苦難を幾つ身に受けて来た彼(女)達のように、「見る」「見られる」に振り回される行く末が待っているとも限らない。それを私はひそかに、個人的にながら危惧する。自分にとって短歌とは何なのか。そうあちこちで書いてしまっているからである。身も蓋もない話だが。
 今、不眠不休でぼーっとした脳裏には、もはや気合が燃え尽きかけ骨しか残っておらず、後は調整、文脈の調整、と盛んに脳内音声を繰り返し流している。「書きたい」欲求の内訳などもうぐちゃぐちゃで、今となっては疲れのせいか思い出すのも難しい。しかし、心底で「書きたい」という意識は残っている。話は実に単純だと思える。陰で複雑ではあるのだろうが。樹木は嵐にいたぶられながらも、確かに開花し、結実をする。あるいはまっすぐにそれを目指して、一本芯を通して立っている。
 肝心なことは、志村氏が既に作中でおっしゃられている。

書けそうだと
思った

ぼくにも
書けるかも
しれない

見てもらう
のは すこし
恥ずかしい

でも これは
ぼくの記憶
なのだ

 ……素晴らしい言葉だと思う。それに最後にこの一節を持ってくるとは、いや、やはり三上君にはかなわない。センスの冴えが違う。
 「『でも』これはぼくの記憶なのだ」。
 「でも」。このたった二文字一言にすべてがつまっているように、原稿を書き上げながら思う。どんなふうに振り回されても、でも、この言葉はぼくの記憶である。それを素朴に、少年らしい澄んだ声で、世界に発している。

 ここまで書いてきて、まず言えることがある。
 本当に、散々書き散らして申し訳ない。
 そしてここまで書いてきたからなんだろう、「放浪息子」、読みたくなって来たよ。



2014/12/02 風橋 平
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テーマ:短歌 - ジャンル:小説・文学

  1. 2014/12/02(火) 11:56:06|
  2. 雑記
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